金沢〜地元再発見〜


7/21、22で石川県の内灘と金沢に行ってきました。
1日めは内灘の友人が主催してくださったBBQに参加、
2日めは金沢市内観光。

実家が富山、大学が金沢のわたしにとっては、ほぼ地元なのですが、
ご一緒した姐さまのおかげで、新たな視点で見て回ることができました♪

そのときの写真をスライドにしました。
少しコメントも添えてありますので、雰囲気を感じ取って頂ければ幸いです。




読了☆哺育器の中の大人、キャラ化する/される子どもたち





どちらも心理学的知識を得たくて、
特に、「何故最近、就職活動に失敗する若者が増えているのか」を掴みたくて、読んでみた。
敢えてこの本を選んだわけではなく、色々な流れが重なって手に取った、という感じだけれど。

先に読んだのは「キャラ化〜」のほうだが、
内容は「哺育器〜」のほうが古いので、こちらのレビューを先行させつつ
2冊まとめて書く。

はっきり言って長いし、文字ばっかりなので、
お読みくださる方は、お時間があるときにどうぞw




「哺育器〜」は、伊丹十三氏と岸田秀氏の対談形式。
岸田氏によると、
動物は、本能が完全な状態で生まれてくるので、産み落とされてすぐに、教えられなくても
立ったり食べたりするといったことができる、つまり行動規範が確立しているのに対し、
人間は本能が未熟な状態(本書では「壊れた状態」と表現)で生まれてくるため、
行動規範が定まっておらず、本能に基づく現実世界の意味付けができない。
例えば、これは食べられるもの、食べられないもの、という概念が持ち込まれなければ、
何を口にしていいかすら分からない(赤ちゃんが何でも口に入れてしまうことに現れている)。
この食べられるもの、食べられないものという概念は
本能で定義付けられたものではない=現実とは合致しようがない=現実の写しではない、
ということで、岸田氏はこれを幻想と呼んでいる。
本能が壊れているので、自己というものもまた、何の基盤もない幻想からできていて、
この他者は「家族」である、あるいは「学校の先生と生徒」である、
あるいは「同じ国民」であると意味付けされた関係の中で、
自分の役割=自分というものの領域=”これこれしていい”自分、つまり自我を見いだす。
他者との関係の中で自我を見い出すので、他者の役割も明らかになっていないといけない。
そうすると、他者に依存することになるので、自我にとって心地よい他者
つまりは、「最初に自我が形成される親との関係の上に積み重ねやすい関係、
統一性を保ちやすい関係をもつ他者」を選ぼうとする。
また、人間は外界に晒されない、母体の中にいるときが一番心地よい状態
(一次的ナルチシズムという。天上天下唯我独尊で自分が一番偉い状態)で、
そこへの回帰願望が常にあるため、
自我の統一性を保とうとする=自分にとって心地よい状態を維持しようとする。
かつ、人間は種族保存本能すら壊れているけれども、
その保存しようとするエネルギーだけは残っていて自我を保つことに使われているため、
自我の統一性を保つために生命すら投げ出す、つまり自殺することもある、という。
一方で「キャラ化〜」は、
筑波大学大学院人文社会科学研究科教授の土井隆義氏による、最近の若い人たちの心性の考察。
ケータイ、インターネットの普及により、最近の若者は
自分とつながりやすい人とだけつながることができる狭い世界で生きており、
自分にとって心地悪い、異質だと思う人は始めから排除しているため、敵対的な関係も存在せず、
そのため、敵に対抗するという共通目標の下で自分に役割が割り振られるということもなく、
その狭い世界で自分の居場所を確保することが難しくなっているという。
狭い世界での関係を維持していくために、お笑い芸人のボケ、ツッコミというように、
互いに補完し合えるキャラ=役割を演じ合っている。
場が異なれば、またキャラも違えなければならない。
この場によって演じ分けるキャラを外キャラというのに対し、
自分は何者かという不変不動の持ち前のキャラを内キャラという。
価値観が多様化し、いかに生きるべきかを指し示す人生の羅針盤が
社会のどこにも見当たらないという不安があるため、この揺るがない内キャラに依存することになる。
依存しているがために、変わってはいけない、変えられないと思っている。
そうすると、挫折を味わうような経験をしたときに、
異質な人と向きあうことに慣れていないこと、
挫折した自分が理想的なものではない異質なものと捉えること、
挫折した自分=挫折した内キャラは変えられないもの、ということが重なり、
変えられない異質なものは排除するしかない
→自分自身の排除=自殺しかなくなる、ということが起こる、という。
この2冊を合わせて考えると、
外キャラの存在は時代によって出てきたものかと思うけれど、
内キャラは自我として捉えることができ、
それは人間にとってもともと守るべきものとしてあり続けたのではないかと思う。
それを守るため、どの時代も自分にとって心地いい人とつながろうとはしていたけれど、
最近においてはより心地よくないものの排除傾向が強くなり、
しかも自らの手でそれが安易にできてしまうため、
自分自身の排除もまた安易に行われるようになってしまったのではないか、と思う。
しかし、この2冊を読んでもまだ、
自我というか内キャラというか、それを守るための自殺ということが
自分の中でピンとこない。
自殺したいと思ったことがないから、ピンとこないのは当たり前なのだろうけれど。
自分が「ピンとこない理由」を突き詰められれば、
若者を自殺したいと思う衝動から解放することができるかもしれない。
というか、そんな大それたことまでできなくても
少しでもラクに生きていくことができるヒントみたいなものを伝えることができたらなあ...
と思う今日この頃。